特定非営利活動法人 戸山流居合道会本部

沿革

戸山流居合道会 歴代会長

初代  森永 清 もりなが きよし

在任期間
昭和51年~昭和56年9月(5年)
生  涯
明治30年6月1日(岡山県勝田郡)~昭和56年9月25日(京田辺市)
特記事項

陸軍戸山学校剣術科科長、連隊長(陸軍大佐)等の要職を歴任され、戸山学校剣術科科長時代【実戦では竹刀剣道が役立たない事例が多い。軍刀の扱法が適切でないために、軍刀を傷めたり、甚だしい場合は自らを傷つけることも多い。実用に役立つ日本刀の操作法を考案し、帯刀本分者に習得させよ】との要請に応え、「軍刀の操法及試斬」(戸山学校編、昭和19年3月)を編纂・発刊するなど戸山流居合道の礎を築かれました。その理詰めの刀法は、陸軍内で定評があり、戸山学校では「戸山の生き字引」とさえ言われていました。

戦後、郷里岡山で農業に従事され、昭和39年に京都府綴喜郡田辺町(現京田辺市)に移住され、創立時の田辺剣友会師範となり、剣道を指導されました。昭和46年には自宅道場に山城武道会を創設し、戸山流居合道・剣道・銃剣道を地元青少年に指導するとともに、戸山学校で自ら研究、制定、公表した、実用刀法としての「戸山流居合」を、新しい平和の時代に相応しい、武道としての「戸山流居合道」に昇華し、老若男女が学べる居合道を確立されました。そして、この新しい文化としての戸山流居合道の普及のため、戸山流の心法・礼法・技法を詳述した「戸山流居合(教本)」を数次にわたり編纂するとともに、指導者講習会を開催して指導者の育成に努められました。さらに、戸山流居合道の振興のため全国各地に指導に出向くとともに、昭和51年に戸山流居合道振興会を結成(昭和55年に大日本戸山流居合道会に名称変更)し、会長に就任され、月読神社新春奉納会、石清水八幡宮桜祭り武道祭での居合奉納演武、戸山流居合道錬成大会や指導者講習会など、今につづく本会行事の多くを創設されました。そして、昭和56年9月25日に天寿を全うされるまで、生涯、本会の会長として、戸山流の普及・発展に尽力されました。


流祖 森永 清先生 略歴
明治30年6月1日 岡山県勝田郡勝北町(現岡山県津山市)にて誕生
明治45年3月 岡山県勝田郡勝北町広戸尋常高等小学校高等科卒業
明治45年4月 岡山県立津山中学校入学
明治45年9月 広島陸軍幼年学校入校
大正4年 広島陸軍幼年学校卒業、東京中央幼年学校入校
大正6年 東京中央幼年学校卒業
大正7年 陸軍士官学校入校
大正8年 陸軍士官学校卒業、陸軍歩兵少尉任官
大正10年 陸軍戸山学校入校
大正11年 陸軍戸山学校卒業
大正15年 陸軍戸山学校教官(中尉)に奉職、戸山流居合道の源流に出合う。 前任者の廃棄した書類の中に、居合の形についての1枚の「覚書き」を見出す。この「覚書き」には5本の形が記されており、現在の戸山流居合道の源流となった。ただし、この「覚書き」は公表されておらず、学生への指導もなされていなかった。
昭和 4年 歩兵第5師団第21連隊中隊長(大尉)任官
昭和 5年 陸軍戸山学校教官に奉職
昭和12年 神戸停泊所司令部員(少佐)任官
昭和13年 歩兵第5師団第21連隊大隊長
3月22日中国山東省錦州茶葉山戦闘において右手縦貫通銃創を負う
昭和13年 陸軍戸山学校教官(中佐)に奉職 剣術科科長として戸山流居合道の礎を築く。 昭和14年 軍刀の操法の研究開始
昭和15年 偕行社記事11月号付録「軍刀の操法及試斬」を起草(流祖自ら演武した写真を挿入)。
昭和16年 形(組太刀)を創設
昭和17年 偕行社記事1月号付録「短期速成教育軍刀(一撃必殺)訓練要領」を起草。(流祖自ら演武した写真を挿入)
昭和19年 昭和17年発行の階行社記事1月号付録を『軍刀の操法其の一』、昭和15年発行の階行社記事11号付録を『軍刀の操法其の二』に改め、若干の修正を加えた上で両者を合作して、戸山学校編「軍刀の操法及試斬」を発刊
昭和19年 満州国北安駐屯第2国境守備隊第2地区隊長に任官
昭和20年2月 朝鮮済州島にて編成された歩兵第264連隊初代連隊長(大佐)に任官し、同年8月15日、同地にて終戦を迎える。
昭和20年11月 内地帰還、予備役編入
昭和21年1月 郷里(岡山県勝田群勝北町(現岡山県津山市))の日本原開拓団にて農業に従事(至昭和39年2月
) 昭和39年 京都府綴喜郡田辺町(現京田辺市)健康村に転居。創立時の田辺剣友会師範となり、剣道を指導。
昭和46年 自宅道場に山城武道会を創設し、戸山流居合道・剣道・銃剣道を地元青少年に指導。合わせて、戸山流居合道振興のため全国各地に指導に出向く。
昭和51年 戸山流居合道振興会を結成し、会長に就任する。
昭和55年 閑院純仁様を名誉顧問に迎え、大日本戸山流居合道会に名称を変更し、引き続き会長を勤める。また、大日本武徳会副会長、全日本銃剣道連盟理事、顧問を勤める。銃剣道形は、戸山学校教官時代に師が考案されたものがそのまま採用され、現在に至っている。
昭和56年9月25日 突然、自宅で倒れられ、逝去される。意識不明となるも、稽古に集まった子供達の戸外から「先生」の声を聞き、起き出そうとされた。
昭和56年9月27日 京田辺市大徳寺において、当会会員を中心に、銃剣道連盟・他武道関係者が全国各地より集まり、盛大な告別式がしめやかに取り行なわれた。出棺に際しては、門人代表として、故徳富太三郎先生(当時副会長、後、関東戸山流居合道会会長)が本居合を演武し、三橋朝生先生(当時関東地区本部 副本部長)と守岡正純(当時本部理事、後、第6代会長)が検証を勤めた。
昭和51年以降 戸山流居合道振興会会長
昭和55年以降 大日本戸山流居合道会会長
自昭和31年 至昭和51年 全日本銃剣道連盟理事、顧問
自昭和45年 至昭和54年 大日本武徳会常任理事、剣道専門委員
自昭和55年 大日本武徳会副会長、全国傷恩武道連盟会長

著 書
戸山流居合道(昭和42年6月1日発行)
戸山流居合(昭和50年仲秋発行)
戸山流居合道(昭和54年11月発行)
大日本戸山流居合道(昭和56年12月発行)


二代  森 久徳 もり ひさのり

在任期間
昭和57年3月~平成2年11月(8年9ケ月)
生  涯
生誕ともに徳島市
特記事項

森永初代会長の突然の逝去のあと、5人の副会長(関東担当徳富太三郎副会長(神奈川県逗子市)、中部担当大西粂蔵副会長(岐阜県高山市)、北陸担当中田大作副会長(石川県小松市)、四国担当森久徳副会長(徳島県徳島市)、関西担当本田留五郎副会長(大阪府八尾市))による集団指導体制を経て、第2代会長に就任されました。

昭和57年5月、閑院純仁様来臨のもと「森永先生追悼第2回錬成大会」を、田辺小学校にて開催されました。偉大な師なきあと、当時の副会長の意思統一が難しく、戸山流居合道協会の分離、関東戸山流居合道会の独立と、大変難しい時期でした。


三代  村井 博 むらい ひろし

在任期間
平成2年12月~平成7年3月(4年4ケ月)
生  涯
大正6年6月29日~平成22年7月(生誕ともに京田辺市)
特記事項

「無我」「和」の境地や、「活人剣」「鞘中の剣」等を会員に説き、森永流祖の指導のとおりに、試斬りと大技での形を指導の原点に置かれました。

村井会長在任中に、本会名称の「大日本戸山流居合道会」から「戸山流居合道会」への変更、「戸山流居合道会会則」の制定とともに、「森永先生13回忌追悼錬成大会」の開催、「戸山流居合道 発祥の碑」の建立(平成6年4月)などがありました。

能筆家の村井会長には、発祥の碑碑文、商標登録した「会名と士魂」の文字、戸山流旗、会報題字などを揮毫いただきました。また、戸山流居合道会発行の感謝状や段位認定証・称号允許証を村井先生に 執筆いただき、先生揮毫の色紙とともに、多くの本会会員が愛蔵させていただいています。


四代  今瀬 由雄 いませ よしお

在任期間
平成7年4月~平成11年12月(4年9ケ月)
生  涯
大正13年10月18日~平成27年10月2日(生誕ともに岐阜県関市)
特記事項

日本刀の研ぎ師を天職とされる今瀬会長は、森永流祖から託された【願以直心 傳次世代】を生涯に亘って実践され、日本刀のプロフェッショナルとして「大技で斬れる戸山流」を確立されました。

平成6年度から「試斬講習会」を定期的に開催され、模範演武や口伝でもって、全会員に斬りの極意を伝授くださいました。その折の今瀬会長の窮極の斬り【垂涎斬り】は、本会における伝説の業となっています。斬りの極意を教える傍ら、会員が存分に研鑽できるようにと、錬成大会や試斬講習会の折には、会員の指し料を無料で研ぎ・補修してくださいました。また、森永流祖に教わった時期により、支部ごとに必ずしも戸山流の形が同じでないことから、指導者講習会や錬成大会を通じて研鑽を重ね、平成9年には「戸山流居合道 教本」および「指導用ビデオ」を作成して、「技の統一」を成し遂げられました。

さらに、今瀬会長は、本会の象徴たる守護刀や本会大流旗、錬成大会優秀賞・士魂賞ならびに雅賞カップなどを寄贈くださいました。カップ類は、錬成大会を活性化し、全会員の稽古の励みになるようにとの配慮に基づくものです。対外的には、古流の指導者や刃物のまち関市での幅広い人脈を通じて、伊勢神宮武芸奉納会や関刃物まつり等の各種の演武会にて戸山流を演武し、居合道界における【斬りの戸山】の確立にご尽力いただきました。

このように、物心両面にわたり、戸山流居合道のさらなる発展と普及振興に多くの功績をあげられた今瀬会長は、今や戸山流にとり【中興の祖】とも言うべき存在であります。

(注) 今瀬会長は、平成9年秋の多重交通事故後遺症のため、任期を1年残して辞任され、急遽、竹中守副会長が会長に就任されました。しかし、竹中氏は、本会会員の不祥事に際し、居合道や日本刀に対する考え方が本会の本来の考え方と根本的に異なっており、師を敬う心に欠けることが露呈しました。そのため、就任後すぐに本会運営ができなくなり、わずか1年で会長を辞任し、さらに1年後には自ら本会を去って行かれました。会長に相応しい事跡を全く残さず、いたずらに会の運営に混乱をもたらした竹中氏を歴代会長に数えるわけにはいかないので、窪田章生先生を第5代会長とお呼びしています。


五代  窪田 章生 くぼた あきお

在任期間
平成12年1月~平成18年3月(6年2ケ月)
生  涯
昭和7年10月19日(鹿児島県)~平成28年6月27日(京都府城陽市)
特記事項

窪田会長は「和」の精神でもって、「戸山流居合道 教本」の「心法・礼法・技法」を修業することを説かれ、「技の統一」を一層進められました。

その任期中に、【戸山流居合道会】【士魂】【会のマーク】の商標登録に着手され本会の普及促進活動の基礎を築くとともに、ホームページを開設するなど、新しい時代に即した戸山流の普及活動を指導され、会は大きく発展しました。また、「流祖25回忌追悼錬成大会」を開催するとともに、森永流祖のご遺族から寄贈を受けた流祖の遺品の数々をホームページに公開し、戸山流の歴史を世の中に広く伝えました。

また、窪田会長在任中に、アメリカUSA支部が開設され、グローバル化も進みました。


六代  守岡 正純 もりおか まさずみ

在任期間
平成18年4月~
生  涯
昭和17年7月13日(京田辺市)~
特記事項

森永流祖の最後の直弟子である守岡会長は、流祖のご遺言である「願以直心 傳次世代」を『戸山流居合道の鍛練』と『戸山流居合道会の運営』の両面から実践されました。

『居合道の鍛練』を通じた継承活動としては、技と理合をバランスよく学ぶことを提唱されました。そして、技の向上を図るために、今瀬会長時代に概成されていた『教本ビデオ』を完成させ、技の統一と指導の徹底を一層大きく前進させるとともに、森永流祖にして果たせなかった『小刀居合』を導入されました。理合いの継承を図るために、戸山流の歴史と特徴を錬成大会などのたびに説かれるとともに、30回記念錬成大会に際し記念誌「士魂」を編纂されました。この記念誌では、森永流祖の人間性や想いを紹介するとともに、戸山流の歩みをとりまとめらました。

また、戸山流居合道会の組織運営を安定し、持続可能なものとするため、まず、窪田会長時代に着手されていた「会のマーク」などの商標登録を完遂されました。さらに、平成27年5月25日には『特定非営利活動法人 戸山流居合道会 本部』の認証を得て、翌々日の27日に特定非営利活動法人を登記されました。この法人格の取得は、本会の社会的信用の確立を通じて、流祖のご遺言を実践する基盤となるもので、戸山流居合道会の新たな歴史を拓くものであります。

(注) 守岡会長は林敏和副会長を後継者に指名し、平成24年4月に名誉会長に就任されました。ところが、会長就任後の林氏は、その職に相応しからざる言動を続け、恩師の今瀬由雄顧問から絶縁されることとなり、当会は前代未聞の混乱状態に陥りました。そして、不適格者を会長に任命した責任を取って守岡先生は名誉会長を辞して相談役につかれましたが、特定非営利活動法人設立を契機に、守岡相談役が会長に復帰されました。林氏は当会に混乱をもたらしただけで、何の貢献もなしていませんので、林氏を歴代会長に数えるわけにはいきません。

◇森永流祖ゆかりの京田辺市月読神社に立つ「発祥の碑」

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